古文OUTTAKE - 3 -

 次の古文の内容に合致するものはどれか。
                     【地方上級(全国型)平成14年度】

 名利につかはれて、閑かなるいとまなく、一生を苦しむるこそ愚かなれ。財(たから)多ければ身を守るにまどし。害を買ひ累(わづらひ)を招くなかだちなり。身の後には金(こがね)をして北斗を支ふとも、人のためにぞ煩はるべき。愚かなる人の目を喜ばしむる楽しみ、またあぢきなし。大いなる車、肥えたる馬、金玉の飾も、心あらん人は、うたて愚かなりとぞ見るべき。金は山に捨て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
 埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ。位高く、やん事なきをしもすぐれたる人とやはいふべき。愚かに、拙(つたな)き人も、家に生まれ時にあへば、高き位にのぼり、奢(おごり)を極むるもあり。いみじかりし賢人聖人、みづから卑しき位に居り、時にあはずしてやみぬる、また多し。ひとへに高きつかさ位を望むも次に愚かなり。智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞(きき)を喜ぶなり。ほむる人そしる人、共に世にとどまらず。伝へ聞かん人、又々速かに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉は又毀(そしり)の本(もと)なり。身の後の名残りて更に益(やく)なし。是れを願ふも次に愚かなり。
 ただし、しひて智をも求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽(いつはり)あり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは誠の智にあらず。いかなるをか智といふべき。可不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく徳もなく、功もなく名もなし。誰か知り、誰か伝へん。是れ徳を隠し愚(ぐ)を守るにはあらず。本(もと)より賢愚得失のさかひに居らざればなり。まよひの心をもちて名利の要を求むるにかくのごとし。万事は皆非なり。いふにたらず。願ふにたらず。

                             〔出典:吉田兼好『徒然草』第38段〕

1 名誉を求めるのは結局は無意味なことであり、そのことを知っている本物の人間なら、世間の評判なども気にせず、超然としていられる。

2 せっかくこの世に生まれたのだから、高い位や長く人々に伝えられるような名声を求めて努力してみるべきである。

3 身分が高く、勢いのある家に生まれた人は、努力しなくても豪華な生活を送ることができ、優れた人物になることが多い。

4 どんなに貧しくとも、一生懸命に勉学に励み、正しい生き方を続けていれば、やがて世間の評判も高くなるものである。

5 本物の賢人や聖人であるかどうかは、その人が亡くなった後に世間の評判がどれくらい続くかをみれば、すぐに判別できる。






[解説]
 内容把握の問題。
 強調の「こそ」があるので冒頭文が大事なのは分かるが、果たして「名利につかはれて」という部分が理解できるか。ただ、「金は山に捨て」は分かりやすい。それを受けて冒頭文と似たような文、「利に惑ふは、~愚かなる」とあるので、この第一段落に視線を流し終えたこの段階で選択肢照合に入る。
 ところが、「利に惑わされるのは愚か」という探知機で照合をかけても全くひっかからない。情報処理に戻る。

 第二段落をしばらく流していけばイヤでも気づくが、この文章はやたらと「愚か」
という言葉が出てくる。先ほどの探知機はダメだったが、どうやら「愚か」で探知機を作るのは間違いではないらしい。
 となるとこの段落では、「ひとへに高きつかさ位を望むも次に愚かなり」と、「是れを願ふも次に愚かなり」で探知機が作られる。「是れ」の指す内容は「誉」や「身の後に名残りて」だ。というわけで、

探知機2号機
「高い位を望むのは愚か」


探知機3号機
「名誉を望むのは愚か」


この2つで照合をかける。
 2号機は肢2が×と分かるが、それ以外はひっかからない。3号機は肢1の前半で○。その他はひっかかりナシ。
 肢1の後半で逆探知をかけるのが順当だが、これは内容的に逆探知をかける必要はなかろう。「名誉を望むのは愚か」と知っている人間が「世間の評判なども気にせず、超然としていられる」のは理にかなったことで、当たり前のことだからだ。
 この部分は、明確ではないが、第二段落の後半の流れで一応は読み取れる。しかし、残った選択肢がこの肢1ひとつで、その内容の重みから考えても、そこまで確認することはないだろう。肢1の前半が探知機3号機にかかって、後半の意味内容に矛盾がないことを確認した段階で、この肢を正解と断じる。
 最後の段落は無視。

[ 正答 1 ]

<全訳>
 名誉や利益にとりつかれて、こころ静かになる暇もなく、一生を苦しんで生きることほど愚かなことはない。財産が多ければ身を守るのもままならない。財産は害を招き厄介ごとをもたらす媒介である。己の死後に黄金を積み上げて北斗星を支えたとしても、子孫には迷惑だ。愚かな人の目を楽しませる喜びも、またつまらぬものだ。大きな車も、肥えた馬も、金玉の飾りも、心ある人はなんて愚かなと思うであろう。金は山に捨て、宝は淵に投げるべきだ。利益に目が眩む人はまったく愚かな人である。
 埋もれることのな自分の名声を永遠に残す、誰しもそうありたいと願う。が、位が高く、身分が尊いからといって優れている人だといえるだろうか。そうはいえまい。愚かで無能な人でも、良い家系に生まれて時の運に遇えば、高いくらいに昇り、贅沢を極める人もいる。素晴らしい賢人聖人でも、低い位に甘んじ、時の運に恵まれず終わってしまう、そういうこともまた多い。ただただ高い位を望むことは次に愚かなことだ。智恵と心とこそが優れているという名誉も残したいとの願いもあるが、それもよくよく考えれば、名誉を愛するということは世間の評判を喜ぶということだ。褒める人であれ貶す人であれ、ともに長くこの世には生きてはいない。その評判を後々伝え聞く人も、またまた速やかにこの世を去ろう。誰に対して恥じ、誰に対して知ってもらおうと願うのだろう。また名誉は悪口の種だ。己の死後に名誉が残ったところで、何ら役に立たない。名誉を求めるのも次に愚かなことなのだ。
 ただし、あえて智恵を求め、賢者になることを願う人のために言っておこう。智恵が身につけばそこから偽りが生まれる。才能は煩悩が積み重なった結果に過ぎない。伝聞や学習によって得たものは本物の智ではない。では、何をもって智というべきなのだろうか。それは可だ不可だと分別できるものではなく、そのどちらも1つの同じものなのだ。では、何をもって善というべきなのだろうか。真(まこと)の人は、智恵もなく人徳もなく、功績もなく名誉もない。そんな境地にいる人のことを誰か知り、誰が伝えよう。これは人徳を隠し、愚か者のふりをしているわけではない。もともと、賢か愚か、得か損か、といった基準の世界にいないということなのだ。迷いの心をもって名誉や利益を要求すると、この通りである。すべては否定のうちにある。名誉・利益は語る価値もなく、願う価値もない。


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饗庭 悟 : AEBASATOL

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