Out Of Copy Head : Part 1

教室でのノートの取り方を変えれば虐めを苦にした自殺は減る
=現代日本における教育問題の根本=
 (草稿)

饗庭 悟(AEBASATOL / アエバ サトル)著

Out Of Copy Head:The Three Rules In Classroom Dictation
[ including 'Un'suicide Solution ]





恒患、意不称物、文不逮意。蓋非難知、難能之也。

                     陸機『文賦<序>』

恒に患(うれ)う、意は物に称(かな)わず、文は意に逮(およ)ばざるを。蓋(けだ)し知ることの難きに非ずして、能くすることの難きなり。

私訳
「常に思い悩んでいる。内なる想いが外なる物事を捉え切れず、発する言葉が内なる想いを語り尽くせないのを。やはり、知ることが難しいのではない、それを実行することが難しいのだ。」




【目次】

<序論>
教育システムの抜本的改革を望むことが無益
現代日本における教育問題の根本
自分の力で「生き残る」ための学力
大学入試、すべてはここに収斂していく
一言で言えば「ぬるい」就活指導
一言で言えば「ぬるい」勉学指導
大志、野心、そして怠惰
友達のような教師・親が増える理由
学校と塾の残念な共通点
若者が悩み苦しんでいるときに「打つ」べし

<本論>
筆者が初回講義で話す「残酷な」内容
若者が行うべき「ノートの取り方3ヶ条」
悲しきコピー頭(ライブ)
悲しき自筆ノート(ライブ)
ノートは聞き取り(ライブ)
ノートは拾い採り(ライブ)
誰がためのノート(ライブ~ブリッジ)
思考は言語によって司られる
自立した思考と洗脳
矛盾の中にこそ真理はある
思考は言語によって司られる(リプライズ)
『意味』の意味
言語とは感覚記号である
理解とは感覚の発動である
学びは身体と不可分である
結論以下、重要度の順位は常に意識する
重要度の順位を常に意識して、前フリ

疑問は即座に解消する(ライブ)
イメージはそれ自身によって語る
『先生のノート、コピーして配ってくれよ!』
怠惰な先生は板書を好む
先生『もっと勉強しろ!』、生徒『先生もね!』

<続・本論>
時系列ノート
BOX別ノート
BOX別ノート(ライブ)
綴じたノートよりルーズリーフの方が良い理由
BOX例
何にでも「遊び」は入れておくもの
注釈式ノート
一問一答になるうえに見やすい
失われた自分

<結論>
認識は知識より生まれる
教育は認識の枠組みを与える
思考力不足が自殺を招く
いじめられている人に「武器」を
いじめとは性悪(せいあく)
いじめとは数(かず)
自殺者に同情するところから止める
自殺は傍迷惑
自殺は人殺し
戦うか逃げるか
戦う準備をする
助けてくれる人を他に選ぶ
小遣いを握り締めて逃げろ
教室でのノートの取り方を変えれば虐めを苦にした自殺は減る
終章:思考力の醸成を妨げる慣習
眠たい綺麗ごと
現実世界は面倒くさいから形式主義
教える大人の日常






<序論>


教育システムの抜本的改革を望むことが無益

 現代日本における教育問題の諸悪の根本、それは制度の問題ではありません。たしかに、受験対策などの学習指導から、いじめ問題などの生活指導まで、教育に関する解決すべきあらゆる問題は、制度設計に起因するところはあります。しかし、結局のところ制度運用といった個々の事例で問題が顕在化するわけですから、根本要因とはいえません。
 では、教員の資質の問題か。そうとも言えますが、より根深い部分を見ないといけません。その教員自身もまた、今日と同じ問題を抱えていた学校教育を過去に受け、それを吸収して教員になったわけですから。『最近の先生はダメだな~』と教員を責めるのは少し安直に過ぎます。
 まして、英語や理数科目での全体の成績底上げが達成されていない理由、それが諸悪の根本ではありません。その理由とは「教員の資質の底上げがなされていないから」なのですが、それこそ教員養成プログラムのあり方といった制度の問題に絡みます。また、『先生の給料が低いから良い人材が集まってこないのだ』とおっしゃる識者もいらっしゃいますが、もしこれが本当ならこれこそ制度の問題です。
 そして、その制度の問題にすべてを帰する風潮は問題なのではないでしょうか。確かにそれが事実であったにせよ、制度は個々人では変えられません。もちろん、変えようとする運動は大切です。が、変えられるにしても、多くの人の意思が絡んで時間がかかります。
 そして、何よりここが肝心なのですが、諸悪の根本は実は制度そのものではないのです。
 各法律や憲法典が原則として、その社会の慣習・価値観を基につくられるように、教育の諸制度もまた、この国の慣習・価値観をベースにしているのです。
 そこにこそ諸悪の根本問題が隠れていると考えるべきではないでしょうか。

 いずれにせよ、制度の問題は改善に時間がかかります。私たちは、いま目の前で成長せんとしている若者、我が子・我が生徒、彼・彼女らをどう導くか。現在の教育制度における諸問題はそのままに、眼前の若者を何とかしないといけないのです。そのためにも、教育に関わるものが個人のレベルで、現代日本における教育問題の諸悪の根本を意識しないといけないのです。
 と言いますか、現代日本における教育問題の諸悪の根本は個人のレベルで改善できます。だから、『日本の教員は世界一やることが多くて忙しい』とか、『教育現場でITを活用すべき』とか、『受験に関しては力を入れられず教育産業に依存せざるをえない』とか言って、安易に制度の問題にしてしまうのではなく、自分自身、親も教員も、そして生徒自身にも、自分の問題なのだから自分で解決するという姿勢が必要ではないでしょうか。



現代日本における教育問題の根本

 それでは、現代日本における教育問題の諸悪の根本とは何でしょう。
 高校や大学などで教壇に立つ者も、ましてや予備校など教育産業に従事する者も、そして親も、そういった教育に携わる者すべてが理解していない根本問題。ひょっとしたら日本人のほぼすべてが理解していない諸悪の根本。
 それは、「思考力とはつまるところ母国語力」であり、その「母国語力を担保とした思考力の醸成を妨げている慣習」が世代を超えて連綿と受け継がれている、それを誰も意識していないことであります。

 その慣習とは何か。

 その慣習のひとつの象徴的行為が、「授業(講義)を受けている生徒が板書をノートに写す」あるいは「先生(講師)が生徒に自分の板書をノートに写させる(写すことを強要する)」ことであります。
 『それのどこが悪いの』とあなたはお思いになるかもしれません。そもそもノートに写すという行為を何の疑問もなく、『して当然』のことと思っていること、そういうところに今日の教育問題の諸悪の根本が垣間見えます。



自分の力で「生き残る」ための学力

 本書はこのノートを取るという行為を契機に現代日本における教育問題の諸悪の根本となっている「慣習」について考えていきます。
 そのためにもまずは、教育現場(予備校・塾も含む)で生徒に伝えるべき「ノートの取り方3ヶ条」を理解し実践してもらいます。それを通じて、
 真に学力と呼べる「自立した思考力」
 それを支えるために主観を脇に置いた「情報収集・分析力」
 そこから生まれる「主体的な行動力」
 それを基礎にして叡智へとつながる「豊かな想像力・発想力」

といった、教育が若者へ本来授けるべき学力について考えていきます。若者がいずれ世間に出て、自分の力で幸せに「生き残る」ための学力です。



大学入試、すべてはここに収斂していく

 本書は表面的にはノートの取り方といった技術論です。しかし深層では、いじめ問題の解決・・・、いえ言い直します。「いじめられている本人が生き残るために行う思考」も含めて、ありとあらゆる教育問題を自力で解決する「本物の学力」というものについての思想について考えを及ぼします。
 それが真の教育を、すべての学校に取り戻すことにもつながりましょう。
 日本の教育問題の特徴は、教育理念として『グローバル人材育成の必要性』だの『ひとりひとりがリーダーシップを発揮するためにプログラム』だのと様々に綺麗ごとが並びたてられている中で、つまるところ大学受験、「ペーパー上の点取りゲーム」にすべてが収斂されて行くところにあります。そのこともあり、また著者の経歴にも絡むとあって、本書では高校教育を念頭におき論を進めます。
 
 といいますか、述べざるを得ません。なぜなら、みな余りに大学入試の合格実績を気にしすぎるからです。高校や私立の小中学校を選ぶときの若者とその親は言うに及ばず。中高一貫教育(中等教育学校)も、内部進学を充実させた付属高校設置も、すべてはどの大学に(または系列大学に)何人入れるかを意識したシステムです。

 ある自治体が地元の高校の「学力」が全国ランキングで最下位に近かったということで、流行の『グローバル』という語を使った何とかという新制度を導入しました。その制度の名前はどうでもいいです。とにかく、そのグローバル何とかは一定の効果を上げました。東大・京大の合格者が増えたそうです。何てことはありません。「学力向上」といっても、その中身はただの偏差値教育、試験の点取り競争、合格実績をあげること。つまり、公的機関が『必要悪』と蔑む予備校や塾と発想は変わりません。
 ここに本当の意味での学力、すなわち、予測不可能なこれからの世界において、正解のない、誰も正解が分からない、そんなところで生き残るための思考力・情報収集分析力・行動力・想像力・発想力、その意味での学力を磨こうという考えは、爪の垢程度もありません。
 正解がはじめから用意され、一定の記憶力と演算力があれば点数が取れるという意味での学力、そういう表面的な学力しか眼中にありません。試験用紙に書かれてある情報を出題者の指示に従って作業する情報処理能力、そういうものしか見ようとしません(それはそれで大事な能力なのですが)。
 しかし、世界は、社会は、本当の意味での学力を求めています。



一言で言えば「ぬるい」就活指導

 ならば、その世界・社会に人材を送り込む大学は、もう受験は終わったのだから本当の意味での学力を若者に授けようとしているかというと、そうでもありません。その大学ですら、大学入試にその力の最たるものを注いでおります。
 事務方は、いかに受験生をたくさん集めるか、そのために学部・学科の新設・再編、入試システムの改変などに怠りがありません。一方で入試問題作成者は、問題を他の大学の教授や予備校に批判されないようにと余念がありません(挙句に外部業者に入試問題作成を委託します)。
 そして、大学経営が成り立つほどに入学生を確保すると、もうそれで目的は達成したと言わんばかりに、学生を野放しにして単位を垂れ流します。
 ただ、次年度も受験生・入学生を確保するために、学生の就職活動支援だけは熱心に取り組みます。高校生やその保護者が『どの大学にしようか』と考える際に、その大学の就職実績を気にするからです。というわけで、『どの企業に何人卒業生を送り込むか』は大学の死命を制する課題ですので、力を注ぐのです。
 いや、それも、社会人となるにふさわしい人材に育てるべく全人的教育を「厳しく」施しているのなら、まだいいでしょう。しかし、やっていることと言えば、表面的な面接・討論対策やマナー講習程度です。マナー講習も筆者の知る限り『ドアノックは何回か』といった形式的なことばかり教えています。そもそも面接対策を、模擬面接を繰り返すことだと思っている時点で大きな勘違いです。また、教育上、無益ですし、そもそも「就活」をそんなことで費やすなんて勿体ない。この辺りは饗庭の『堂々面接回答 ザ・クール・アンサー』(新曜社)を参照してください。



一言で言えば「ぬるい」勉学指導

 就職活動に対してすらこうです。ましてや、学問に取り組む姿勢を大学が「厳しく」問うことなどありません。
 文系の学生ならどの大学の学生でも、少し要領よくやっていれば3年間で卒業に必要な単位はほぼすべて取れます。残りの1年間は遊んでいます。いや、残り1年間を遊ぶために、あるいは『就活』に専念するために、3年間で単位を取得できるよう彼らは「計画的」に「勉強」します。大学側もそれを許してしまう仕組みをつくってしまっているのです。大学には「学生にもっと勉強させろよ」と言いたくもなります。
 そんな中で4年生になっても真面目に勉強している人がいます。税理士などを目指す資格試験受験生や公務員志望者(1次試験で非常にハードな学力試験が課される)、TOEICなどの点数が採用要件に課される企業を志望する人、そういう人たちです。
 何てことはありません。結局はペーパーテスト。正解がお膳立てされてて、明確に点数が出る、そういう分かりやすいものにしか、この国の人たちは一生懸命になれないのです。
 この現状をありのままとらえれば、大学は就職予備校に堕していると言わざるを得ません。
 多くの大学は様々に、研究への取り組み、産学連携の推進、地域社会への貢献、国際交流の進展、そして在学生がいかに生き生きと学び、知的世界への好奇心を目覚めさせているか、それらを盛んに喧伝します。が、学生たちのやっていることを間近で素直に見れば、大学はただの就職予備校です。
 3年生までの勉学はただの通過儀礼(しかも容易に通過できるもの)。フィールドワークだ、留学生との交流だ、ビジネスの最前線を視察だ、といろいろとやっていますが、それらは中学・高校での修学旅行や社会見学程度。ただのイベントです。それらイベントを必然とする「深い学び」を、イベントの前後に積み重ねていなければ本当は無意味なのですが。結局それらは徒に学生の思い出作りをお手伝いしているに過ぎません。勉強した気になったような思い出作りです。



大志、野心、そして怠惰

 もちろん、志ある人もいます。どんな腐った組織にも、まともな人はいるものです。志ある(あるいは野心あるでも良いと思います)真面目な人材は、高校教諭にしろ、大学教授にしろ、学校職員にしろ、そして学生にしろ(本当はここが一番多いでしょう)、いることはいます。
 しかし、その人たちの力は通常、大きな力になりません。正論は通らないのです。過去の、日本の近代から現在までの歴史と同じように、正論は通らないのです。
 なぜなら、正論は怠惰な人には都合が悪いからです。
 そして、怠惰な人とは筆者も含めてすべての人間に、いつでも当てはめられ得るものだけに厄介です。
 本来なら、その怠惰な心と戦うべきなのです。その中で勝ったり負けたりしながら、自分自身も組織も社会も良い方向へと進むのです。
 ところが、負けっぱなしの人がいます。あるいは、そもそも戦うことをしない人がいます。残念ながら、高校・大学などの公的教育機関でそういう人はたくさん存在します。



友達のような教師・親が増える理由

 そのような怠惰に淫する者たちは、若者を「厳しく」指導しません。厳しさは他者に求めることで、自分にも突きつけられます(ある意味、これは健全な世界に住んでいることの証でもありますが)。学生・生徒に「厳しく」接するためには、自分が厳しく自己を律しないといけません。怠惰な教育関係者は、これがしんどいので若者に甘く接するのです。
 生徒と友達のような教師、子供と友達のような親、未成年と友達のような大人、そういう人たちが増えているのはそのためです。それでも、大人と同じ厳しいレベルに引き上げ、そのうえでの「友達」ならまだ良いです。レベルの高い対等な関係ですから。そうではなく、若者のレベルの方に擦り寄って友達のように対等に話すのです。
 これも怠惰の為せる業です。なぜ、そう怠惰なのか。それは、「教育に対する思想」が脆弱だからです。ではなぜ脆弱なのか。やはり、思考することに怠惰だからなのです。こうして、脆弱さから生まれる怠惰はさらなる脆弱性と怠惰を生む悪循環を為しますが、その循環は「頭の中で使う言葉」の問題から生まれます。これについては次章以降で述べていきます。
 いずれにせよ、怠惰な心に勝つこともなければ、そもそも戦うこともしない大人が若者を教える立場に立っているというのは、よくある光景です。



学校と塾の残念な共通点

 そういう人がひとつの世界・組織の中に増加する風潮になると、その外部にいる人たちにつけ込まれることになります。
 高校なら、大学受験の予備校・塾。大学なら、資格取得のための様々な通信教育や専門学校。昨今では就活塾も跋扈している様子(これが専門知識の不要な分、参入障壁が低いために一番たちが悪い。ちなみに筆者も「就活ワークショップ」なるものを主宰しておりますが)。
 これらは本来なら必要のないものです。余程の特殊な分野(たとえば医学部受験や宝塚音楽学校を志願)、特殊な事情(たとえばどの学校にも在籍していない)といったことでもない限り、通う必要のない場所です。こういうところに時間とお金をかける理由などまったくないのですが、実際には需要があります。
 国公立・私立問わず、公的教育機関の怠惰が教育産業の拡張を招いているのです。そして、教育産業は損益分岐点を見定めながら動いている以上、数値化できる学力=偏差値に関しては受講料の範囲内で責任を負いますが、数値化できない本物の学力には責任を負いません(そのこと自体は民間企業である以上悪いことではない)。教育産業の拡張は、日本の教育の本当の意味での質の向上には貢献しません。
 もっとも、教育産業が隆盛であることで、日本にたくさん居る「知的フリーター」や「社会人不適合者」の生活が支えられています。ですので、一概には否定できないのですが。ちなみに、「社会人不適合者」とは、大人相手だとコミュニケーションが取れないが、何も知らない未成年が相手なら自分の知っていることを偉そうに喋ることができ、その過程の中で根拠薄弱なプライドだけを肥大化させる大人になりきれない人、ワガママで甘えん坊で嫉妬心旺盛でスグに拗ねる子ともがそのまま大きくなったような人のことです。(予備校・塾講師にはこの手合いが実に、実に、実に多い。)
 教育産業はビジネスの論理で動いています。もはや公的教育機関も、ある程度ビジネス感覚を持たないといけませんが、その感覚は最優先すべきことではありません。しかし、教育産業は外食産業などと同じくあくまでサービス業で、経営を成り立たせる論理を最優先します。ですから、どうしても「若者への教育に対する思想の脆弱性」があるのです。むろん例外はありますが(筆者も例外でありたい)。
 いや、公的教育機関も残念ながら「若者への教育に対する思想の脆弱性」を有しています。こちらにも例外はあります。が、その例外も、その多くが、これも残念なことに「思想」を受験技術・資格取得(あるいは社会人に受けが良い面接作法)の方へベクトルを向けているのが実情です。
 このように、公的教育機関と教育産業の違い、たとえば高校と予備校の違いは、違いは山ほどありますが、本来一番に挙げられるべき違いは、教育についての思想が強靭か脆弱か、であるべきなのです。しかしながら実際は、両者ともに脆弱。たまに強靭な思想はあっても、両者ともそれはすべて偏差値向上に対してのもの。結局は同じ穴のムジナ。先ほど、公的教育機関に怠惰な大人が増えると外部の者たちにつけこまれるというような意味のことを述べましたが、実態は馴れ合いで共存しているのです。

 ここまで述べた現状はあるべき正しい状況とは言えませんが、改善していくのは困難です。しかし、個々のレベルでは現状においても、本来あるべき教育を若者に施すことは可能です。そのことについて、特に教育に関わる人たちがこれらの現状を誤解しています。



若者が悩み苦しんでいるときに「打つ」べし

 ここで筆者が広く訴えたいことを述べます。
 『受験で合格する』『資格を取得する』『面接で採用される』、それらに不可欠な技術と、本来教育されるべき「思考力」「情報収集・分析能力」「行動力」「想像力・発想力」、つまり「本物の教育」を施すことは、別のものだと、分けて考えるものだと、そもそも異質なものだと、そう捉えている人が多くいます。が、それは誤りです。
 強靭な「若者を教育することについての思想」、それがあればこの二つを同時に行うことは可能です。むしろ、大学合格とか資格取得とか内定獲得とか、そういった表面的な「現世利益」的なものを若者が求めている、つまり、自分の人生をかけて真剣になっている、このときこそ、「本物の教育」を施す好機なのです。
 分かりやすい「利益」を与えながら(入試問題で正解をたたき出す方法など)、学問の喜びや、自立した思考の下で自立した人生を送るとはどういうことなのか、そのためにどんな力が必要でどう身につければよいのか、そういった分かりにくいけど深みのある「真の勉学」「すべてに応用が利く学習の方法論」というものを伝えることは可能です。それを伝えるもっとも良いチャンスが受験であり、就活であるのです。
 よく『鉄は熱いうちに打て』と言いますが、若者も、受験や就職といった進路に悩み苦しんで、頭と心を熱くしているその時に「打ちつけた」方が、鋭利な人間に育っていくのです。
 もっとも打ち付ける「ハンマー」の方がヘナヘナでは意味がありません。教える側の大人が「ハンマー」であるためにも、強靭な思想、教育についての分厚い思想を有してなければなりません。
 そのことを、勉学・学問の基本作業である「ノート・メモをとる」という行為を通じて考えてみたいと思います。
 再度申し上げますが、この本の表面上のテーマは「ノートの取り方3ヶ条」です。若者が行うべき、先生が教えるべき、「ノートの取り方3ヶ条」です。非常に具体的な作業の話、技術論です。
 しかしながら、「ノートの取らせ方」を通じて「人に何かを教えるとはどういうことなのか」「学ぶとは、考えるとは、どういうことなのか」を考えて欲しいのです。「若者を教育することについての思想」を分厚く強靭なもの、同時に可変的なものにしてほしいのです。若者に受験を通じて真の思考法を伝える、それと同じように。



プロフィール

饗庭 悟 : AEBASATOL

Author:饗庭 悟 : AEBASATOL
自己紹介

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