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知的判断によって進路を選択せよ@講演録:進路と『孫子』(11)



彼れを知らず己を知らざれば、戦う毎[ごと]に必ず殆うし。


 結局、この彼は独立リーグとは言え、野球人として生きていける人間がどの程度の実力の人間か、自分にどれほどの実力が備わっているのか、『彼れ』も『己』も知らなかったのです。そして戦うごとに危うい。同じ失敗を何度も繰り返す。この彼は公務員試験という受験戦争とはどういう戦場なのか、自分はそこで戦える力を身につけられるのか、『彼れ』も『己』も知らなかったのです。見誤ったのです。
 なぜこんなことになったかと言いますと、入団テストに挑戦する、公務員試験に挑戦する、という進路の選択に際して、彼は「知的な判断」を下さなかったからなのです。
 本当は入団テストを受けたことはそれなりに美しいことと言えますし、不合格になったとしてもその挑戦自体は素晴らしいものと言えなくもないのです。ただ、それを「知的な判断」を通さず行ったからいけないのです。「知的な判断」を通さなかったから、その挑戦に敗れた場合でも、それなりに何か実績が残るように手を打つことができなかったのです。「知的な判断」を通さなかったから、敗れた場合の次の選択肢を、しかも実現可能性の高い選択肢を用意することができなかったのです。「知的な判断」を通さなかったから、選手にはなれなくてもグラウンドの整備員や用具メーカーの社員など野球に近いことをするといった、今までの経験を無にしない進路を選択する発想ができないのです。
 そんな「知的な判断」がなぜできなかったのかというと、「やりたいこと」があったからです。その「やりたいこと」が知的な活動による「判断としての希望」ではなく、好き嫌いといった「好悪の感情としての希望」だったからです。
 この野球青年は私が知っているほんの一例に過ぎません。こういう人はまだまだいて、私はイヤというほど見てきました。ということは、今ここで私の話を聞いている君たちの中にもいるかもしれないということです。「やりたいこと」を見つけ、それを追いかけてぼろぼろになっていく人が。
 だから、「やりたいこと」を見つけるにしろ、今既にあるにしろ、それは「好悪の感情としての希望」ではなく、知的活動としての「判断としての希望」でないといけないのです。「知的に判断」するということは、『彼れ』も『己』も知らないといけません。広い世界を見ないといけないのです。自分に何ができるか、それを詳細に見ないといけないのです
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饗庭 悟 : AEBASATOL

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