「やりたいこと」の2つの意味@講演録:進路と『孫子』(1)

(※冒頭省略)

 自分の将来を、職業を考えていく上で、『自分にはやりたいことがある』という若者がいます。そんな若者を『自分にはやりたいことが分からない、見つからない』という若者が羨むわけですが、果たしてこれは本当に羨むべきことなのでしょうか。 
 あるいは、『やりたいことが見つからない』若者に対して親や教師は、『やりたいことを見つけなさい』とか、『やりたいことがないなんて事はないだろう、よく考えなさい』とか言って、自分の将来を宣言することを催促してくるわけですが、果たしてそれは本当に見つけなければならないものなのでしょうか。
 そもそもやりたいことがあるというのは本当に幸せなことなのでしょうか。
 それを考えるために、この「やりたい」という言葉をもう少しきちんと考えてみましょう。
 「やりたい」には希望の助動詞「たい」が含まれています。この「希望」というのは「判断としての希望」と「感情としての希望」に分けられるでしょう。たとえば『風邪薬が飲みたい』と希望したなら、それは「判断としての希望」です。風邪を治すべく、そのために必要な措置として風邪薬を服用しなければならないと判断し、そう希望したわけです。風邪薬の味が大好きで『だから飲みたい』と希望した、とそんな人はまずいないでしょう。一方で、『ゲームがしたい』というのは「感情としての希望」です。単にゲームが好きでゲームを楽しみたいから希望したのです。まさか、家でも電車内でも日夜ゲームに集中することによって、液晶に写る複雑な画面構成を瞬時に認識する能力を高め、合わせて両手の親指から中指まで計6本の指の反射神経と筋力の柔軟性を高める、そのような目的をもってゲームに取り組むのである、とそんな人はまずいないでしょう。
 今の話で分かると思いますが、「感情としての希望」はもう少し正確に言うなら「好悪の感情としての希望」です。好き嫌いの話なのです。冷静で合理的に判断して『自分はこうすべきだから、こうしたい』と希望するのではなく、『なんかオモシロそうだからやってみたい』といった具合の希望なのです。
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饗庭 悟 : AEBASATOL

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